都市建築【安土桃山時代】

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安土桃山時代は、姫路城や大阪城、安土城といった雄大な城が数多く作られた時代でした。
織田信長による楽市楽座政策により、それまで商業をするときに大きな規制となっていた座が廃止され、自由な販売や営業を人々ができるようになりました。

その結果大きな城のある都市部にはそれまでにないような多くの人口が集中するようになっていき、それが都市としての建築様式を発展させていくことになったのです。

また安土桃山時代といえば、豊臣秀吉によって重用された千利休による茶道のための居室、茶室の基礎ができたのもこの時代のことです。
安土桃山時代は文化面でもそれまでの時代とは大きく違った発展をした時期であることから、その文化を体現する建築物も多く発展しました。

室町時代には仏教に基づく住宅建築様式である仏教建築が盛んに行われていましたが、これが桃山時代(1573年~)に入ると急速に下火になります。
変わって武将たちの邸宅として使用する城郭が数多く作られるようになっていきます。
この武士たちによる邸宅は現在までも木造建築の基礎になる書院造りによってできています。

茶室も最初はこの書院造りによる厳格な作り方がされていましたが、それが町人たちのための邸宅にも普及していくとハリゆけ壁ではなく土壁を使ったり、竹格子による下地窓(したじまど)がつけられるなど独自の進化をしていきました。

安土桃山時代には都市部で商業が発展したこともあり、豪商と呼ばれるあらたに商人となった人たちが多く城郭近くに住むようになりました。
豪商たちは潤沢な財産を所有していたことから、邸宅には豪華で大掛かりな仕掛けをつけるといったまた武士たちとは違った邸宅を形成していきます。

豊臣秀吉・徳川家康はこの時代現在の京都府伏見区にあたる丘陵地に複数の城を作りました。
これらは元和9年(1623)に廃城となっていますが、現在にも当時の面影を残す跡地があります。
秀吉が伏見城を建築したことにより、伏見の町は大きな城下町として発展していきました。

おそらくこの伏見地区が日本で最初に栄えた一大商業都市ではないかと思われます。
城下町では、まず城の本丸がある「内曲輪」とその周囲を取り囲むようにしてある武家屋敷の集まる「中曲輪」、そしてその更に外周をとりまく町人の町である「外曲輪」の3つによって構成されています。

それぞれのエリアは堀や川によって囲まれて区分けがされており、万が一の戦のときには防衛力を高めるための工夫がされています。

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